case.001 大阪府高槻市・寺田家

寄稿

シューコとグランパ ― まぶさび系そして/あるいは軟体構築系

篠原資明

 2015年のことになる。あべのま(大阪)で寺田家三代の展覧会が開かれているというので、出かけていった。三代ともなると、さすがににぎにぎしくも壮観であったが、シューコこと寺田就子のグランパの作品を見たのは、そのときが初めてだったように思う。一見して通じあうものがあると感じたのである。ともかく、二人とも、小さなものへのこだわりが尋常ではない。
 あとでグランパの資料を見せていただいたところ、ドングリ製の人形、こより製の犬、松ぼっくり製の鶴から、植物の種のブローチ、こより製の草履のオブジェ、チラシを切り抜いたオブジェにいたるまで、まるでカワイイもの不思議クラブといったラインナップではないか。
 小さなものの中に、ドングリや松ぼっくり、種といった自然物が混じっているところも、似通っている。シューコ作品にも、タンポポの綿毛や桜貝が使われるからだ。
 グランパの資料の中には、小さめの製図帳もあった。開いてみると、幾何学図形がびっしりと書き込まれていた。そういえば、シューコも、プラスチックやアクリルの幾何形態を多用する。さらには、メジャーや分度器、グラフ用紙など、製図用具ともとれるものが、作品に使われもする。もっとも、そういったところは、シューコのパパが建築家であることを考えると、グランパだけからの影響と断じるわけにもいくまい。
 グランパ存命中に部屋に飾られていたものをシューコ本人が写したという写真も見せていただいた。その中で特に目を引いたのは、フィギュア2体が入れられたガラスビンだ。それが周囲に映る影とともに撮影されていたのである。作品がグランパのものだとしても、写したのはシューコにほかならない。そこに、シューコ・ワールドに特徴的な、透明素材を透過する光への関心を見たく思うのは、ワタシだけだろうか。
 しかし、である。確かに通いあうところがあるとはいっても、直接的な影響関係を語れるかどうかは、別問題だろう。というのも、シューコとグランパでは、違いも大きいからだ。その違いを自家製の用語を使うならば、シューコは、まぶさび的なのに対して、グランパは、軟体構築的であるといえるだろう。
 軟体構築とは、貝類のような軟体動物から発想した造語だ。貝類は、外界から身を閉ざしながらも、吸収したものを分泌しなおして、貝殻の内側をきれいに作りあげていく。同様に、オタクは彼らなりに大好きなアニメを吸収し、アニメで育まれた夢で室内を飾ろうとする。フィギュア・コレクションは、そういった夢の分泌物にほかならない。時代をさかのぼれば、あの鴨長明も、同様といえよう。長明は、世捨て人のような顔をしながら、歌集や仏典、仏画、楽器など、以前の洗練された生活の残滓で方丈の草庵を飾りたてていたからである。
 グランパの部屋は、長明やオタクの部屋と同様の、軟体構築的な所産に満ちあふれているではないか。さきに触れたカワイイもの不思議クラブのラインナップに混じって、招き猫やハローキティのような新旧のフィギュア、大黒天のような福神まで配されている。まさにグランパが分泌しなおたイメージ世界だ。その中に、仏教でいう三尊形式めいたものがあって、目を引いた。真ん中の本尊は、シューコのママによると、「月を見上げるかぐや姫」とのこと。それを挟んで、さきのドングリ人形と招き猫が両脇侍よろしく配されているのだ。そのせいか、カワイイもの不思議クラブが、ひとつの密厳ワールドのようにも思われてきた。すなわち、この世のただ中の浄土である。
 他方、まぶさび、とは、「まぶしさ」と「さびしさ」を掛けあわせた造語である。ワタシは、この言葉を20世紀の末あたりから、さまざまな意味合いで使いつづけてきたが、美術の分野では、透明素材と反射ないしは反映素材を用いた作品について使うことが多い。とりわけ、透明素材がもたらす透きとおりと反映との二重効果を生かした作品について、まぶさび的と名ざすことにしている。この二重効果は、重奏する奥行とでもいうべき興味深い現象を生む。たとえばショーウィンドーを覗きこむとき、透かし見える向こう側の洋服なりマネキンなりと、手前に映り込む自分や周囲の風景とがダブって見えるはずだ。そして、そのダブり具合は自分が少しでも移動すると、変化したり消失したりする。重奏する奥行とは、そのような場合に経験されるものをいう。
 シューコは、透明素材とスーパーボールやビー玉などを組み合わせることで、精妙きわまりない奥行の戯れへと、見る者を誘う。それらの材料の多くが既製品であること、またスーパーボールやビー玉などにカラフルなものが交えられていることも、シューコ・ワールドの特徴だろう。先述のとおり、シューコの作品は、小さなサイズのものが多い。考えてみれば、小さいものほど覗きこみたくなるものだ。また、既製品を使うことで、そういった既製品へのなじみきった見方からの異化も可能となる。そんな中に、これまた既製のカラフルなスーパーボールが仕掛けられると、重奏する奥行とともに、現れては消える色しずくのようにも見え、覗きこむ者たちを別世界へと誘うのである。
 しかし、だからといって、シューコ・ワールドは小さなものに自足しきっているわけではない。たとえば、空が映りこむ中に小さく飛行機の形体を配したり、あるいは空の写真の上にタンポポの綿毛を乗せたりといった具合に、空への開かれを示している。その伝でいくと、桜貝を使った作品などは、さしずめ海への開かれを示すともいえるだろう。いや、そもそも透明素材や反映素材を使う時点で、まわりに広がる世界への開かれを示しているといってよい。なぜなら、それらの素材をとおして、いやおうもなく周囲世界は透かし見え、映りこむからである。
 さらにいえば、一つ一つを見るとサイズの小さいものが多いにせよ、大がかりなインスタレーションへの展開を示すこともある。その点で、あいちトリエンナーレ(2016年)における試みは、シューコ・ワールドにとって画期的だったといってよい。もとバレエのレッスン室だったという会場は鏡張りを施されていたこともあって、透きとおりと映りこみとが幾重にも仕掛けられた秀逸なインスタレーションとなっていたのだ。まさに、シューコが二重の奥行の達人、まぶさび界のスーパーアーティストであることを見せつけた展示でもあった。
 ただ、どんな作家も時代環境を吸収しては分泌しなおすという営みと無縁ではない以上、シューコも軟体構築的な側面をもつ。それは、現代という時代の環境そのものが、まぶさび的だからにほかならない。まわりを見わたせばわかるとおり、建築から日用品にいたるまで、透明素材と反映素材にあふれているし、夜になっても、真っ暗闇を見つけるのが難しいほど、まばゆい光に満ちている。シューコは、そのような環境から、まぶさび的要素を吸収し、小さな作品の数々へと分泌し直したのである。その小さな作品が、周囲世界を取りこむ。そして、あるときは空を取りこみ、また、あるときは海を取りこみもする。シューコ・ワールドとは、空と海のあいだを意識させずにはおかない、小さくて大きな世界のことなのだ。